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大東文化大学法学部政治学科教授小倉いずみのホームページです。

Izumi Ogura

Professor of English
Department of Political Science
Daito Bunka University

** Academic Achievement **   

科学研究費補助金Research grants

科学研究費とは

科学研究費は日本学術振興会や文部科学省が大学の研究者に出している研究費です。いくつかのカテゴリーがありますが、一般的なものは基盤研究です。金額が高い基盤研究はSと基盤研究Aです。基盤研究Bは、文科系で共同研究としてよく利用されます。個人の研究者が一人で使用する科学研究費は、基盤研究Cが代表的なものですが、挑戦的萌芽研究もあります。40歳以下の研究者には、若手研究という優遇された枠があります。若い人が、新しい発想でスタートする研究です。

2020年の研究成果
Northeast MLAにおける発表
2020年3月ボストンで開催されたNortheast Modern Language Associationの第51回大会に参加しました。昨年ワシントンDCで発表をしましたので、今回は参加だけです。コロナウイルスの影響が広がる中での出張でしたが、マサチューセッツでは感染者が1名のみでしたのでボストンはいつも通りの賑やかな町でした。学習院女子大学の佐久間みかよ先生のセッションに参加し、マサチューセッツ工科大学のWyn Kelly先生が司会をして活発な議論がなされました。また昨年の学会でパネルをご一緒したGary Grieve-Carlson教授にお会いしました。
 ハーバード大学神学部のデヴィッド・ホール先生ご夫妻にお会いして先生の出版されたばかりのThe Puritans (Princeton Univ. Press)に関してお話を伺いました。またボストン第一教会とボストン第三教会(Old South Church)の現地調査をしました。第三教会はジョン・コットンの未亡人のサラが設立メンバーとなっていますが、幼児洗礼を認めた革新的な教会でした。同志社大学の新島襄、ベンジャミン・フランクリン、ブッカー・T・ワシントンも会員でした。

単著『トマス・フッカーとコネチカット』の出版
2020年2月に学術図書『トマス・フッカーとコネチカット』(金星堂)を出版しました。全章9章で440頁の著書で、科学研究費による現地調査で撮影した写真を多く掲載しています。また地図に関しては歴史書から著作権使用許可を取っています。文字だけではなく視覚からも理解し易いように配慮しました。巻末には資料集、年表、英語と日本語の文献目録を入れて歴史書としても読んでいただけるようにしました。本全体としてはフッカーの生涯が中心ですが、著作の分析では文学、植民地の創設としては歴史、神学者としてのフッカーは宗教など多くの分野を横断した研究書となっています。
 先ずマサチューセッツ湾植民地に与えられた勅許状の内容を検討し、その後コネチカット植民地を創設したウォリック・パテントを解説して二つの勅許状の相違を分析します。その後二つの植民地における総会議で問題となる執政官の拒否権について、ウィンスロップの主張を紹介しました。実際この拒否権が原因でフッカーは新天地を求めたのですが、民主主義の成立と関わる重要な問題でもありました。
 勅許状の解説をした後にフッカーの伝記を書きました。彼の英国での人生、オランダへの亡命、アメリカへの渡航、コネチカットの創設、ピーコット戦争、晩年の大作『教会規律の概要』、コネチカット基本法を章ごとに分析しました。
 フッカーの生涯のみの著作ですと現代とのかかわりが少なくなりますので、1700年代の啓蒙主義と宗教のせめぎ合いを扱い、さらに独立革命の時に13の植民地が旧北西部の領土をめぐって争った連合規約について紹介をしています。植民地時代の勅許状は独立革命時も領土要求の根拠とされたので、本書のすべての時代を結びつける重要な要素でした。
 本書は研究成果促進費学術図書による出版です。学術図書は2012年度に日本ソロー学会から出版した『ソローとアメリカ精神――米文学の源流を求めて』でも取得しました。しかし、これは学会の代表として科学研究費学術図書を得ただけなので、タイトルに小倉いずみ編著という名前はありません。今度の学術図書は私の単独研究です。2004年に出版した『ジョン・コットンとピューリタニズム』の姉妹編として植民地時代研究の成果を読んでいただければ幸いです。

2019年の研究成果
全米ソロー学会における発表
7月10日から14日までマサチューセッツ州コンコードにおいての全米ソロー学会の年次大会が開催されました。2年前の2017年はソローの生誕200周年を記念する大会だったので発表者が多かったのですが、今回はアメリカ人研究者も70名程度でした。日本人研究者は私一人でした。"Concord Community and Emerson's Antislavery Movement"のタイトルでエマソンと奴隷制廃止運動に関して、主に1860年代のエマソンとリンカーン大統領との関係、奴隷解放宣言に対するエマソンの反応を中心に発表しました。
 例年土曜日の午前中に基調講演がありますが、今年はローレンス・ビュエル先生などエマソンやオルコット、フラーの研究者が登壇するシンポジウムとなりました。また昨年日本ソロー学会の講演会でサラ・ワイダー先生をお迎えしましたが、全米ソロー学会で再会しました。2年ぶりのボストンで素晴らしい天気に恵まれ、学会を十分にエンジョイしました。

Northeast MLAにおける発表
2019年の海外の研究発表は3月23日MLAのNortheastにおいて行いました。ワシントンD.C.郊外にあるナショナル・ハーバーというリゾート地で開催されました。市内から車で20分くらいの場所ですが、メアリランド州にあります。発表タイトルは"Silence and Expression in Edwards and Emerson"で、ジョナサン・エドワーズからエマソンまでの文学の変遷について発表しました。司会も担当しましたが、4名のパネリストが時間厳守で発表してくれましたので、質疑応答もできました。

初期アメリカ学会における発表
2019年1月26日に初期アメリカ学会で発表しました。トマス・フッカーの伝記を書いているので、その内容を要約する形で、マサチューセッツとコネチカットの勅許状の内容を比較しました。この勅許状はアメリカ独立革命の時に英国から割譲されたミシシッピ川までの旧北西部の領有権をめぐって争った時に、要求の根拠となったものです。古い地図をパワーポイントで映し出し、解説しました。初期アメリカ学会は発表時間が1時間、質疑応答が1時間で長いので、質疑応答はとても面白かったです。独立革命時に各植民地がどのような手続きで領有権の主張を撤回したのか、チャーターとパテントの違いは何か、など普通に疑問に思う点が指摘されて刺激を受けました。マサチューセッツ湾会社が認可される以前のボストン周辺の状態はまだ未解明な部分があり、これからも注意してゆきたいと思います。フッカーの伝記の出版にはまだ時間があるので、マサチューセッツとコネチカット、ニューヨークなど広範囲な視点から検討します。

2018年に出版された研究成果
江藤秀一・鈴木章能編『英語教師力アップシリーズ@授業力アップのための英語圏文化・文学の基礎知識』が2017年6月1日に開拓社から出版されました。小倉は第6章「アメリカの歴史と文学」のうちセクション3「ピューリタニズムと文学」、そして第7章「アメリカの四季の祭りと行事」を担当しました。英語圏の著作なので、アメリカ文学だけではなく、スコットランドやオーストラリア、ニュージーランドの情報も入っています。また完全な学術書のように専門家向けの内容ではないので、一般の人々に分かり易く書かれています。
 江藤秀一先生は筑波大学名誉教授で、現在静岡の常葉学園大学の学長をされています。鈴木章能先生は長崎大学教授です。

2018年に開催された科学研究費による講演会
小倉科学研究費では、6月に二つの講演会を開催しました。これは京都で開催されたホーソーン・ポウ国際学会で来日されたアメリカ人教授を、東京でお迎えして開催したものです。6月26日火曜日に、初期アメリカ学会において学習院女子大学の佐久間みかよ先生の科学研究費と共催で、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校のMichael J. Colacurcio教授による講演を開催ました。コラカチオ先生はウィンスロップの「キリスト教徒の慈愛について」の説教と『日記』を中心に、ヒンガム反乱に関しても検討しました。懇親会も盛会で、私は先生と親しくお話しし、最新の著書Godly Lettersで扱われたフッカーの評価に関してお聞きしました。
 6月30日土曜日には、大東文化大学においてColgate University のSarah Ann Wider先生の講演会を国際比較政治研究所と共催で開催しました。ワイダー先生はエマソン崇拝者であったCaroline Sturgisの原稿の編集をされており、エマソンの自然論をスタージスがどのように具体化して理解したかを分析しました。ワイダー先生はエマソンと同時代の女性たちを研究しています。Federal Street Churchの牧師だったEzra Stiles Gannettの妻のAnna Tildenの伝記を執筆しました。スタージスはボストンの富裕な商人の娘で、ソローの鉛筆の販売にもかかわり、エマソンの講演のメモを取っていたことで知られています。
 懇親会を含めて、5時間近くエマソンについてお話しすることができ、大変有益な会でした。翌日は皇居の東御苑と浅草をご案内しましたが、徳川幕府の時代の江戸城の歴史と東京の成り立ちに特に興味を持ってくださいました。皇居の美しい自然を満喫されて、新しい側面を見ていただけたと思います。

2017年に出版された書評について
2017年12月に小倉は日本英文学会の定期刊行物『英文学研究』第95巻に書評を掲載しました。九州大学名誉教授の小野和人先生の著書『生きている道――ソローの非日常空間と宇宙』(金星堂)を、エマソンのソローに対する弔辞"Thoreau"から始めて、二人の交友関係、『コンコード川とメリマック川の一週間』、『メインの森』について書きました。私は日本文学はあまり読まないので、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の部分は大変でした。しかし、ソローと宮澤賢治の銀河に関する天文学の知識には共通点があり、19世紀のウィリアム・ハーシェルによる天王星の発見など、この書評によって多くのことを学び、研究を深化させることが出来ました。
 書評をする際に、著書の内容を理解することは重要ですが、ただ要約するだけでは読者は満足しません。著書がなぜ面白いのかを、別の観点から検討する必要があります。小野先生の著書は多くの示唆が含まれており、私はその中でもエマソンとソローの関係を中心に、私が解釈したエマソンからソローを見る視点を取りました。
 ソローはエマソンから大きな影響を受けていますが、ソローは1840年代から独自の世界を切り開きます。ソローは極めて博学で、博物学や動植物への観察、測量方法、動物学(Agassizからの影響)、天文学、物理学、数学など多岐にわたり執筆しています。エマソンは彼の自然科学への知識を高く評価して、彼と博物学の著書を出版しようと考えていました。これはソローが1862年に死去したので、実現しませんでしたが、エマソンの彼に対する高い評価を示すものです。
 小野先生の著書では、ソローのもう一つの重要な分野である政治が描かれていません。ソローは奴隷制反対運動で重要な役割を果たし、逃亡奴隷法に反対する講演をしています。また1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリーの攻撃について、これを支持する講演を行っています。
 エマソンとソローは、1840年代後半に『一週間』の出版をめぐって、関係が一時悪化します。しかし、奴隷制反対運動では、共に戦い、二人は1850年の妥協について強硬に反対しました。これ以後、関係は元に戻り、二人は南北戦争までボストンを中心とする奴隷制反対運動を主導しました。
 ソローは1848年に"Civil Disobedience"を書いていますが、決して非暴力だけを支持したのではありません。彼のジョン・ブラウン支持の論文を読むと、「正義を実現するためならば戦いも辞さず」という強いメッセージが読み取れます。
 エマソン研究では1990年代から奴隷制反対運動にどのように関わったかが重要な主題となっています。ソローに関しても同様で、ソローと奴隷制反対は現代の研究の中心です。小倉は昨年Northeast MLAでエマソンと奴隷制反対運動について発表しましたが、ソローについても研究の必要があると考えています。

2017年のアメリカにおける研究発表について
3月と7月にアメリカの学会で研究発表をしました。

7月 全米ソロー学会ソロー生誕200周年記念大会
2017年はヘンリー・デイヴィッド・ソローが誕生して200年です。7月11日から16日までアメリカのマサチューセッツ州コンコード市において、全米ソロー学会の記念大会Thoreau Becentennial Gathering 2017が開催されました 小倉はこの大会で研究発表をしました。発表のタイトルは"Language of Paradox in Thoreau and Emerson"でした。全米ソロー学会はセッションの数が30程度で規模は小さいのですが、専門家が出席するのでどのセッションもソローやエマソン、ホーソーン、オルコットなどを扱っていました。
 私が発表したセッションは、ウォールデン湖の地理と地図を分析した発表、エマソンの作品の後期にみられる博物学、ホーソーンの短編「イーサン・ブランド」とソローの『一週間』の比較、がありました。私は二番目で、ソローの友人だったフランス系カナダ人のAlex Therienの無垢な心を解説し、その後エマソンの作品にみられる自然との融合と解脱を「逆説」と見て、ソローとエマソンの自然観を分析しました。
 発表時間は各人20分でした。私は原稿と配布資料を準備して、フルスピードで読みました。日本人の英語はアメリカ人から見ると、スロー・ペースなので、できるだけ違和感がないように時間を無駄にしないように努力しました。アメリカの研究発表は自分の大学院時代を思い起こさせます。当時は必死でゼミの発表の準備をしましたが、学会もまったく同じです。英語力が基本ですが、それに20分の発表に値するだけの内容がなくてはなりません。文学では特に引用による論証が必要なので、抽象論はありません。アメリカの発表では論理性が必要とされます。イントロダクションはだれでも知っている事実から始め、前提、論理の展開、結論が明確であることは不可欠です。
 今回の発表は学期中だったので、ボストンの滞在は5日間でした。3月の発表のように時間があれば、時差ボケもとれて発表となるのですが、全米ソロー学会は大変でした。しかし、質疑応答は活発で、私の発表にもコメントがあり、質問がありました。聴衆には私の大学院におけるアメリカ思想史の教授Alan Lawson先生もいらしたので、先生もコメントをくださいました。昨年先生が東京にいらした時以来の再会でした。また聴衆の中にエマソンの専門家がいて、日本のエマソン研究について質問がありました。短いアメリカ出張でしたが、発表も成功して実りある一週間でした。

3月Northeast MLA
2017年3月22日から26日までにアメリカ合衆国の北東部地区のNortheast Modern Language Associationの第48回大会が、メアリランド州ボルチモア市で開催されました。小倉は"Ralph Waldo Emerson and the Antislavery Movement"というタイトルで発表しました。部門はアメリカ文学・言語、パネルのタイトルはHuman Rights Discourse in Antebellum Culture、ChairはState University of New York (SUNY) のBrockport校のGreg T. Garvey教授でした。
 アメリカの学会のホームページにはすべてのセッションが掲載されます。検索でNortheast Modern Language Associationを見て、終了している場合はPast Conventionでご覧いただけます。私が発表したのは、The 48th NeMLA Annual Conventionです。小倉が発表したパネルは、March 25, Saturday, Track 12.25, パネル番号は16267です。アメリカの学会は会場とセッションが多いのが特徴です。この48回大会のパネルは400個ありました。また大会は大学のキャンパスではなく、大きなホテルの宴会場を5日間借り切り、開催されました。日本の大学で開催される学会は、キャンパス内で懇親会が開催されますが、アメリカはホテルを貸切るので、ホテル内で発表会場や懇親会が開催されます。夜遅くまでイベントがあり、ランチやディナーにおいて友人どおしで学問について話し合います。ロビーは人でいっぱいです。
 アメリカでは、発表や出版は学者の必須条件ですから、大きな学会になるのでしょう。大学院生にとって、学会は職探しの場所で、発表するだけではなく、有名な教授と知り合い、就職先の面接を受けることもあります。イベントとして重要なので、会場は数年先まで決定しています。 Northeast Modern Language Associationは、2018年はピッツバーグ、2019年はワシントン、2020年はボストンで開催されます。

2016年からの新しいプロジェクトについて
2016年4月1日より新しいプロジェクトがスタートしました。過去の2回にわたる挑戦的萌芽研究をさらに展開する基盤研究C「啓蒙主義からアメリカの知的独立にいたる宗教の変貌」です。3月に終了した「アメリカ文学と啓蒙主義」をベースにして、さらに時代を広げ、ラルフ・ワルド・エマソンまでを扱います。2020年3月までの4年間のプロジェクトなので、落ち着いて研究を進めてゆきたいと思います。挑戦的萌芽研究では啓蒙主義の概念をたどりましたが、まだまだ文献の中に踏み込んでいません。啓蒙主義には多くの側面があり、民主主義や共和制などの政治的な側面、政教分離と宗教などの宗教的な面、ロマン主義と文学などの文化的な側面、など研究の裾野が広いのです。4年間で単行本に匹敵する研究成果を上げられるようにしたいと思います。

2016年の研究成果について
2016年5月9日に九州アメリカ文学会第62回大会において、「Abel Buellによる最初のアメリカ合衆国地図」というタイトルの発表をしました。コネチカット州ハートフォードに在住したエイベル・ビュエルが作成したアメリカ独立直後の合衆国地図を中心として、独立13州が、英国から獲得したミシシッピ川までの西部の土地に関して、領有権を主張したことを地図で解説しました。領有権を主張した根拠は、植民地創設時に英国国王が出した勅許状でした。英国からの独立を戦ったのに、領有権を主張するのに英国国王の権威を引っ張り出すのですから、皮肉ですね。ヴァジニアは三つの勅許状を持っていましたので、北西部(独立当時の北西部なので、現在のオハイオ州やインディアナ州、ミシガン州、イリノイ州の地域です)のほとんどの地域に対して領有権を主張しました。州権という地方分権を主張しながら、事実上は13州のエゴのぶつかり合いでした。
 もちろん、最後はジェファソンの説得により、西部の土地は連邦政府の直轄地となります。この西部の直轄地は公有地条令と北西部条令で整備されてゆきます。現在の都市計画につながる重要な条令です。ジェファソンはさらに、1803年にルイジアナ購入を行ない、アメリカの領土を2倍にしました。私はこの地図を研究しながら、ジェファソンの偉大さを再認識しました。広大な領土に関して深い知識を持っていたジェファソンは、独立宣言だけでなく、現在の50州の基盤を作りました。
 2016年10月17日から21日まで、ハーバード大学神学大学院教授のデヴィッド・ホール先生が来日されました。先生は台湾で講演が予定されており、その往路に東京に立ち寄られました。大東文化大学では10月19日水曜日の午後4時から5時30分まで、小倉科学研究費は国際比較政治研究所と共催で、講演会を開催しました。2010年から14年までホール先生は大東文化大学をベースとする基盤研究Bの海外共同研究者でした。今回は小倉科学研究費の一環として、講演会を開催しました。講演のタイトルは"Religion, the State, and Civil Society: A Contested Relationship in the United States"でした。先生は植民地時代から現代まで、政治と宗教の関係をたどりました。
 2016年10月14日から31日まで、ボストン大学大学院のアラン・ローソン先生が来日されました。先生は小倉の大学院時代の教授で、アメリカ思想史が専門です。日本にいらっしゃるのは初めてでした。
 2016年11月25日に小倉は創価大学文学部英文学会において、講演を行いました。講演のタイトルは「アメリカの民主主義と自由の理念――植民地時代からアメリカ独立革命まで」でした。パワーポイントを使用し、多くのアメリカの古い地図を使用しました。

2016年の出版物について
新著『ジョン・ブラウンの屍を越えて―南北戦争とその時代』(2016)が金星堂から出版されました。小倉いずみは第二章「ニューイングランドの風土」の中の「ラルフ・ウォルド・エマソンの奴隷解放運動」を執筆しました。ジョン・ブラウンは19世紀半ばの過激な奴隷制反対主義者で、ハーパーズ・フェリーの武器庫を攻撃したことで有名です。ボストンやコンコードの奴隷制廃止論者とのつながりが深かったジョン・ブラウンについて、エマソンやソローは多くの著作を残しています。この論文の中で、小倉は1820年代から1865年頃までのエマソンの政治的な発言を分析しました。エマソンは抽象的な超絶主義者と考えられていますが、奴隷制について政治的な発言をしています。
 1850年代のアメリカは北部と南部の妥協の10年でした。しかし、奴隷制は妥協で解決できる問題ではありませんでした。南北戦争にいたるリンカーンと共和党の動き、エマソンと政治とのかかわり、など広い視点から当時の社会情勢を分析しました。
 『ジョン・ブラウンの屍を越えて―南北戦争とその時代』は2004年から2007年に進められた基盤研究Cのプロジェクトからスタートしたものです。研究代表者は国士舘大学松本昇教授、研究分担者は小倉いずみ、九州大学高橋勤教授、茨城大学君塚淳一教授でした。小倉は過去4年間役職にあったため、編集には加わっていませんでしたが、3人による編集で基盤研究をさらに拡大した形で出版されました。
 書名「ジョン・ブラウンの屍」は南北戦争当時に北軍の兵士によって歌われたメロディーです。後に「リパブリック賛歌」としてリメイクされましたが、日本ではヨドバシカメラのコマーシャル・ソングとして知られています。別名「オタマジャクシはカエルの子」ですから、聞いたらすぐにわかります。

2016年春休みの現地調査についての報告
挑戦的萌芽研究の最終年度の春休みに、研究分担者が海外出張を行ないました。坂部真理はアメリカ議会図書館で最新の連邦教育スタンダードの資料を収集しました。中根一貴はチェコ共和国国民図書館とカレル大学でチェコの政治に関する資料を収集しました。

2015年夏休みの現地調査についての報告
2015年のアメリカ出張の目的は、マサチューセッツ州のコンコードが中心でした。独立戦争の舞台となったノース・ブリッジや解放された黒人が居住したシーザー・ロビンズの家を調査しました。コンコードではウォールデン湖に行くのが通例ですが、今年は天気が悪く、行った午前中は激しい雨でした。しかし、そのおかげで湖で水泳をしている人がほとんどいませんでしたので、美しい湖の写真が撮れています。
 コンコードにはヘンリー・ソローに関する文献を保存しているThe Thoreau Instituteがあります。アメリカのソロー学会は学会活動をしていますが、古い稀覯本は保存していません。ソロー・インスティチュートは古い時代のソロー学会の文献やソローの研究をした人たちの文献を保存しています。これらの文献を整理するため、二人の学芸員がいます。ソロー・インスティチュートの組織はWalden Woods Projectと呼ばれ、もともとはウォールデン湖周辺の森の保存が目的でした。周辺の森林を倉庫や住宅地にする開発から守るため、プロジェクトが中心となって森林を保存しています。
 建物はプライベート・ロードを持ち、道路から離れた奥まった場所に大きなレンガの屋敷が二つあります。コンコードはそれでなくとも固定資産税が高い高級住宅地なので、このインスティチュートがいかに財政的に豊かであるかが伺えます。学会が屋敷をもっているなんてすごいと思いますが、その資金がロック歌手から寄付された基金をベースにしていると聞いただけで、アメリカ文学の影響力の大きさがわかります。日本のソロー学会の文献もあり、驚くと同時にとてもうれしかったです。
 午後は時間がありましたので、ルイザ・メイ・オルコットの父ブロンソン・オルコットが超絶主義を実践しようとしたFruitlandsに行きました。コンコードから1時間のドライブで、アクトン市の隣にあるハーバードという町です。ハーバード大学とは違いますので、お間違えなく。フルートランズは広々とした高台の場所にあり、遠くの地平線まで見渡すことができます。250エーカー(32万坪)の農場で自給自足の生活を目指したのですが、ブロンソン・オルコットは冬の寒さや過酷な労働に耐えられず、7か月で挫折しました。隣のアクトン市はソローが鉄道に言及する時に出てくるタウンですが、ここにはマサチューセッツ州の刑務所があります。数年前のボストン・マラソンのテロの犯人が拘留されていましたが、現在は連邦刑務所に移送されたそうです。
 ニューヨークとボストンの間の往復はAmtrakを利用しました。今年は速いAcelaに乗りましたが、とても快適でした。時間的には通常のNortheast Regionalと大して変わらないのですが、週末でもビジネスマンが多数乗っていました。ボストンで乗車した人はほとんどがニューヨークで下車しましたので、やはりビジネスに不可欠な列車なのでしょう。
 ニューヨークでは、自由の女神の内部にある博物館を訪れました。またクラウン(冠)部分までらせん階段を上りました。昨年も自由の女神のリバティ島を訪れていますが、冠部分は予約を取らないと入場できないのです。また台座の部分にある博物館には、建設に必要とされた技術が詳細に解説されており、とても参考になりました。博物館なのに、入場制限が厳格で、なかなか冠部分に上る予約が取れません。博物館に入場する人数を少数に限定することは不合理だと思います。しかし2001年の同時多発テロ以降、自由の女神は警備が厳格です。
 像の内部のらせん階段は300段と聞いていましたが、博物館の階段も含んでいるので、像自体の中の階段は100段くらいです。それでもとても急峻で、途中で休まないと息が上がります。でもみんなカメラくらいしか持っていませんから、身軽で、簡単に登れます。冠の部分に上がると、たいまつを持つ大きな手がすぐ横に見えます。私は早い時間にフェリーに乗りましたので、まだ見学者も少なく、余裕を持って階段を上ることが出来ました。
 ニューヨーク公立図書館は、今年も工事中で大きなReading Roomは閉鎖されていました。もともとこの図書館は書庫が閉架で、使いにくいのですが、最近は観光客が多くて落ち着かない雰囲気です。すべてのフロアに観光客がいて、静粛な感じがしません。また以前はReading Roomに隣接する部屋に検索用のパソコンが山ほどあったのですが、最近は自分でパソコンを持って来ることが前提になっています。これは私のようなVisitingの人には不便です。
 ハーバード大学のワイドナー図書館は観光客が内部に入ることができないので、夏休み中は静かです。コピーをするにはやはりワイドナー図書館の方が良いと思います。もっとも最近はコピー機も少なく、学生はネット上でダウンロードして文献を読んでいる様子です。私の分野は古い時代なので、論文や原典がデジタル化されていませんので、昔ながらのコピーでないと仕事ができません。しかし、文献の利用方法が増えることは大歓迎です。
 図書館も私が科学研究費によってリサーチを始めた17年前とは大きく変わりました。コピー料金の支払い方もインターネット上でするようになりましたし、図書館の利用状況もすべて登録されています。私は過去の15年間の利用実績がありますので、あっという間に手続きが終了しました。でも変わらないのは、書庫の中にある古い文献です。文献を読むと言う作業だけは私が行える仕事です。手続が簡単になった分、リサーチの時間がゆっくり取れるので有難いです。


科学研究費のプロジェクトについて
 2015年4月より科学研究費のプロジェクト「アメリカ文学と啓蒙主義」の進捗状況についてお知らせします。昨年度研究分担者として大東文化大学准教授の坂部真理氏が加わりました。坂部氏は現代アメリカの政治を研究しており、アメリカ人の自立と公教育について論文を書いています。また2016年4月からは大東文化大学講師の中根一貴氏が研究分担者として加わりました。中根氏はヨーロッパ外交の専門家ですが、特に東ヨーロッパのチェコを研究しています。現代の政治の中で、国家としての自立やカトリック教会と政治の関係について論文を書いています。現地調査のため毎年ヨーロッパを訪れていますので、最新の情報を持っています。
 小倉は現在資料の収集をしていますが、アメリカの独立当時のコネチカット植民地の様子や当時の地図を中心に研究を進めています。啓蒙主義はアメリカにおいて、1700年から1800年の100年間に思想上の大きな足跡を残しました。アメリカ独立革命はいわば啓蒙主義の総仕上げとも考えられます。本研究は、マサチューセッツ湾植民地のエリート主義や彼らの衆愚政治への批判からスタートして、ハーバードの神学の変貌をたどります。牧師養成機関だったハーバードは、アメリカの大学の中でも先駆的に科学を導入します。ピューリタンの会衆主義が未だハーバードで勢力を持っていた時代に、天文学や数学、物理学や化学を教えるなんて考えられないことですが、ハーバードはそれを次々と導入します。
 エール大学も負けずと、ダンマー・コレクションと現在呼ばれている啓蒙主義の書物をヨーロッパから輸入します。このような科学の時代のど真ん中に、1740年にジョナサン・エドワーズのように古いピューリタンが登場するのですから、興味深いです。エドワーズは「最後のピューリタン」として回心体験を復活して、時代錯誤の古い伝統に戻ろうとしますが、彼は科学の書物も多く読んでいました。
 コネチカットはマサチューセッツよりも遅れている印象がしますが、地理学では最先端でした。昨年現地調査で入手したアメリカ独立後の最初の合衆国地図は、現在の地図にもっとも近く、当時の文献を集めて作成されました。この地図に関して、科学研究費のページをご覧ください。
 2015年の夏休みはアメリカの現地調査を行ないました。今年はボストンとニューヨークが中心でしたが、詳細についてはトップページをご覧ください。このページの自由の女神からマンハッタンを見た写真は、今年撮ったものです。


2014年夏休みの現地調査についての報告

2014年夏のアメリカにおける現地調査を終了しました。今年はハートフォードが中心で、コネチカット歴史協会でコネチカット州の古地図を調査しました。コネチカットは植民地時代に英国国王から勅許状を1662年に得ました。マサチューセッツも1691年に改訂版の勅許状を得ています。英国の古い植民地は、アメリカ革命の時に領土の拡大を主張しました。マサチューセッツとコネチカットは勅許状に領土は「from sea to sea」と書かれていたため、大西洋からミシシッピ川までの領土を主張したのです。コネチカットからミシシッピ川までの地域は大変広大な土地です。
 しかしアメリカ革命に参加した13州には西に別の植民地があったため、領土を主張できない植民地がありました。例えばロード・アイランドは西にコネチカット植民地がありましたから、領土の拡大はできません。デラウェアやニュージャージーもそうでした。ですから大きな領土を主張できたのは、マサチューセッツ、コネチカット、ペンシルバニア、バージニア、ノース・カロライナ、サウス・カロライナ、ジョージアしかありませんでした。なぜかニューヨークはペンシルバニアにじゃまされて、西部に拡大できなかったのです。
 今回の現地調査はこの古地図を探し出すことでした。ニューヨークの公立図書館はこのコピーを所蔵していますが、デジタル映像が明確ではありませんでした。それでコネチカット歴史協会を訪問した際に、質問をしましたら、大きなデジタル映像を持っているとのことでした。とてもはっきりしていて、私はその場でその地図の著作権使用料を支払いました。
CEO フッカーの8代目の子孫であるシェパード・ホルコム氏もこの古地図を所有していました。それで娘のアン・ホルコムさんにシェパード氏が晩年を過ごした大邸宅を案内していただき、現物を確認しました。19世紀のハートフォードの富豪であったホルコム家は、バスルームが10個もあるレンガ造りの大邸宅を所有しています。広大な邸宅には、地図や多くのアメリカ植民地時代の資料があり、大変参考になりました。
 今回の現地調査は天気も良く、飛行機からの眺めも素晴らしかったです。ナイアガラの滝はめったに飛ばないルートでしたが、今回はエリー湖からオンタリオ湖に続く川の流れが見えました。また帰りにサンフランシスコに飛んだ際に、ソルト・レイクが真っ白になっている様子がよくわかりました。飛行機に乗っていると、ビデオ画面にnavigation mapが出ますので、場所を確認できます。これがgoogle mapと重なりますので、本当に正確です。またこのmapは4Dなので、飛行高度も確認できますし、北極から見た飛行ルートを出すこともできます。今までアメリカの国内線は私にとって最悪の飛行機でしたが、今年から機材が更新されて素晴らしかったです。以前はアメリカの地図と見ながら飛行ルートを確認していましたが、便利になりました。毎年現地調査に行くごとに、新しいデバイスや電子機器に驚いています。
(写真はニューヨークの自由の女神像の台座からマンハッタンの方向を見ています。正面は移民博物館があるエリス島です。右側はマンハッタンの南で、2015年に完成したインディペンデンス・タワーが見えます。自由の女神像の内部にある博物館に入場するためには予約がいります。またクラウン(冠)部分に上がるには、さらに別の予約が必要です。 リバティ島からの写真は2015年8月23日に撮影しました)


2013年の感想
 11月に駐日アメリカ大使としてキャロライン・ケネディ氏が東京に着任しました。ボストンのレッドソックスの試合に行くと、試合の合間に「スイート・キャロライン」の歌を歌います。私が最初に修士号を取得したボストン大学Boston Collegeはカトリックの大学で、エドワード・ケネディ上院議員が理事を務めていました。またケネディ上院議員が亡くなった2009年8月は私が現地調査でボストンに滞在していた時で、ホテルにはオバマ大統領も宿泊していました。私にとっては身近に感じられる大使です。
 ハートフォードのAncient Burying Groundは現在修復の作業が行われています。ルーシー・ブラウンさんからの情報では、観光客が墓地の中を歩くことができるように通り道を作り、墓地周辺に柵を立てているそうです。私は古いままの墓地が好きなのですが、芝生が踏み荒らされるので仕方ないのかもしれません。
 2014年からホームページでいただいた書籍の紹介をしたいと思います。毎年多くの先生から出版された著書を贈呈されるのですが、拝見してお礼状をお出しして終わっています。政教分離のプロジェクトは今年度で終了しますので、このページを使用して新刊紹介ができればと思っています。とは言いつつも多忙なので、軌道に乗るまでは時間がかかるかも知れません。


2013年夏休みの現地調査についての報告
2013年夏のアメリカにおける現地調査は8月下旬に終了しました。ニューヨークでは例年通りフリック・コレクションを訪れ、散歩したりで時差ボケを調整しました。最近はなかなjet lagが抜けません。
 今回はパソコンのウルトラ・ブックを持っていきました。仕事はするつもりはありませんでしたが、Wi-Fi(無線LAN)がどの程度進んでいるかを試してみようと思いました。マンハッタンではほとんどタダでWi-Fiを使用できます。ヒルトン・ホテルのロビーではタダなのに、部屋では有料なのでちょっとヘンですね。アムトラックの列車の中は無料でした。田舎のハートフォードではホテルの中も無料で助かります。有料と言っても12ドルですから、携帯電話の使用料よりははるかに安いです。インターネットに繋がると、日本経済新聞などのデジタル版が読めるので日本の事情は同時に理解できます。このためニューヨークでは紙ベースの日本経済新聞は見られなくなりました。
 昨年までは、日本からのメールを読むときはホテルのビジネス・センターに行き、パソコン使用料を払っていました。それでもキーボードは英語版ですから、日本語で返事を書くことはできませんでした。今年はウルトラ・ブックでWi-Fiにつながりますから便利になりました。アメリカは通信機器の発達が早く、15年前にアメリカに出張した頃は10日間音信不通だったのに、ビジネス・センターで仕事をするようになり、つぎはホテルのロビーでパソコンが置いてあり、今年は自分の部屋で仕事ができるようになりました。アメリカに行っていても、日本との時差はほとんど感じません。
 ニューヨークではテレビもNHKのニュースが衛星放送されています。ニューヨークと東京は昼夜が逆なので、夕方に「おはよう日本」が放送され、朝8時に「ニュース7」が放送されていました。でもこれでは英語は上手になりませんね。2年前はハリケーン・アイリーンにぶつかり、ニューヨークとボストンでさんざんな目に会いましたが、今年は晴天でとても楽しい休暇でした。
 コネチカット州ハートフォードへは直行のアムトラックで移動しました。ハートフォードではフッカーの9代目の子孫であるアン・ホルコムさんやコネチカット墓石協会のルーシー・ブラウンさんにお会いしました。ルーシーさんは墓石の保存の専門家で、Daughters of American Revolution(DAR)から賞を受けています。またご自身もアメリカ革命の時の兵士の子孫で、DARのメンバーに推薦されています。DARは確実に200年前に家系図を遡ることができないとメンバーになることはできません。この組織はSonsとDaughtersの二つに分かれていますが、歴史の研究ではDaughtersの方が格が上です。エリートの男性は働かなくてはならないので、文化的に活動できなかったのでしょうか。ルーシーさんを始め、ハートフォードでは女性が大学と言う研究組織の外で活動しています。
 例年通りジョンズ・ホプキンズ大学のラーザー・ジフ先生ご夫妻に会いました。ジフ先生はピューリタニズムの大家ですが、相変わらずお元気です。マサチューセッツ州バークシャーの別荘からいらしてくださいますが、来年も会いたいとおっしゃって下さいます。
 さらに今年はセンター教会(フッカーが設立したCongregational Church of Hartford)でフッカーの文献や過去の教会の建物の記録を見ました。フッカーの署名は現存していませんが、その写真は拝見しました。この署名は私がフッカーの伝記を出版する時には使用させていただきたいと思います。他にもセンター教会が主催した講演会の原稿が100年間分残されていて、Robin Bidwellさんがコピーを準備してくださっていました。教会に図書館があり、ビッドウェルさんのご主人がlibrarianでいらして、お二人で歓迎していただきました。
 ボストンでハーバード大学神学部のホール先生にお会いしました。例年のことなので、楽しく11月の来日について打ち合わせをしました。
 ボストンからニューヨークまでは再びアムトラックで移動しました。今年は逆ルートでしたが、晴天に恵まれ美しい海岸線が見られました。ピーコット戦争の舞台となったミスティック川の河口は海抜が低く、しかも平坦な地形なので、陸地と海岸線がつながっているように見えます。ピーコット戦争の時、コネチカット軍は海路から攻撃せず、まずナラガンセット湾に移動して陸路でミスティック砦を目指しました。おそらく海路で兵を移動すれば、陸地から丸見えだったのでしょう。現在のミスティック砦はニューロンドンという名称に変わっています。でもミスティックは海洋研究所に名前が残っていますし、アムトラックのミスティック駅もあります。
 今回はゆっくりと海岸線を見るために普通の急行列車に乗りましたが、Acelaという特急もあります。次回はこちらに乗りたいです。アムトラックはビジネスマン用と一般の人の車両が別です。Quiet trainという車両では携帯電話は禁止、赤ちゃんを乗せることはできません。会話は最小限にしなくてはなりません。アメリカ人は隣の人に話しかけることはありませんが、quiet trainは図書館のような静寂さの中で仕事をする人が多いです。
 ニューヨークにふたたび戻りホテルに入ると、地上が賑やかなのでどうしたのかしらと見に行ったら、英国の人気グループのOne Directionが来ていました。54th Streetを閉鎖して、隣のジークフリート劇場までが記者会見場になっていました。ワン・ダイレクションは日本のSMAPや嵐のようなグループです。現代のビートルズのようにアメリカでも大変人気があります。ホテルの上層階から下を見るなんて私にとって思いがけない偶然で、ちょっとした息抜きでした。
 このワン・ダイレクションは英語で「1D」と略称されています。私がニューヨークで遭遇した時は、「ワン・ダイレクション This is US」という彼らがスターになるまでの経緯をドキュメンタリー風に描いた映画のプレミアの日でした。9月のLabor Day Weekendでは大変人気があり、映画の売り上げが全米で一位だったそうです。
 ニューヨークからサンフランシスコに移動しました。サンフランシスコではベイ・ブリッジが付け替えを予定されており、8月28日午後8時に閉鎖されました。地震で古いブリッジが落下したので、新しいブリッジを建設し、9月のLabor Day Weekendの後に開通しました。サンフランシスコに到着した日はIT関係の大きな会議が開催されており、市内は大渋滞でした。


科学研究費プロジェクトの内容

CEO

小倉研究室では、過去16年間にさまざまなプロジェクトを実施してきました。最初に行なった研究は、アメリカ植民地時代の1633年にボストンに渡航したジョン・コットンの著作と生涯を研究しました。コットンは、ジョン・ウィンスロップと共に、マサチューセッツ湾植民地の創設に多大な貢献をしました。しかし、古いピューリタニズムを指導したこともあり、現代は忘れられた聖職者です。私はコットンについて、彼の著作をハーバードで収集し、日本語で紹介しました。アメリカではコットンの研究家として有名なラーザー・ジフ教授と共同研究しています。ジフ先生は現在はピューリタニズム研究から離れていますが、ペリー・ミラー以後の研究者として先駆的な役割を果たしました。日本にもいらして、京都アメリカ研究セミナーの講師を務めました。先生は日本が大好きで日本の学者の世話もなさっています。小倉も毎年アメリカに出張してハートフォードに行くと、先生はバークシャーの夏別荘から会いにいらして下さいます。
 小倉は2004年に『ジョン・コットンとピューリタニズム』を出版しました。この著書には、コットンの神学理論の分析、会衆主義教会の構成、マサチューセッツ湾植民地の歴史、アンチノミアン論争、コットンと同世代の神学者、年表などを収録しています。また多くの図版を使用して、視覚の面からも植民地時代をわかりやすく解説しています。
 2005年からは、マサチューセッツの隣の州であるコネチカットの成立を研究しています。コネチカットはハートフォードを中心として1638年に創設されました。これは、最初のフロンティアと言われ、ボストンの外に作られた大きな植民地でした。創設者のトマス・フッカーは、ボストンに上陸した時に、当時ハーバード大学の所在地だったケンブリッジに教会を作り、最初の牧師に就任します。しかし、フッカーは、さらに大規模な植民地を創設することをめざしたのです。彼は、内陸で水が豊かにある場所を探し、コネチカット川沿いのハートフォードに移住します。フッカーはボストンよりも自由な教会を作ろうとしました。また彼は政治にも関与し、民主主義を広めます。1639年に制定されたコネチカット基本法はGeneral Courtの構成を細かく規定しています。これはアメリカ最初の成文憲法と言われています。政治の権限を代議員から成る総会議に置き、総督や執政官の権限を制限しました。エリートが社会を指導したマサチューセッツと異なり、フッカーは荒野を開拓した一般市民の力を信じたのです。また代議員を選挙する資格として要求されていた教会員資格を、コネチカットでは不要としました。宗教の影響力を弱めたのです。現在私は、トマス・フッカーの伝記を執筆しています。
 ラルフ・ワルド・エマソンは、19世紀アメリカの思想家です。ヨーロッパの文学の模倣をやめて、アメリカ文学の独立を呼びかけたエッセイ「アメリカの学者」で有名です。エマソンは、アメリカ大陸の自然に目を向けるように文学者に訴え、英国やヨーロッパ大陸の古い伝統や素材から離れて、アメリカ独自の文学を確立しようとしました。またエッセイ「自己信頼」に見られるように、他人に左右されない強い自分の意思を持つように人々に呼びかけました。アメリカ人は、植民地時代から大陸を開拓した人たちですから、アメリカの荒野を開拓した祖先の自立心をアメリカ特有の性質と考えたのです。エマソンは個人の能力の潜在性も重視し、エッセイ「同心円」では、人間の能力は池に投げられた小石のように無限に拡大すると言っています。このような強いアメリカの自己意識と国民性は、独立直後の人々に大きな勇気を与えました。
 私はこの三つの主題を中心に研究を進めています。アメリカ文学では、テキストを基礎に理論を展開することが重要だと考えていますので、古い時代でも、原典を収集することから始めています。歴史と文学、文化と思想史、宗教と政治、法律と社会、など多様な観点から、現代のアメリカの思想の源を探究しています。
 
(写真は、マサチューセッツ州ボストンの北30キロに位置するケープ・アン(アン岬)から大西洋を見ています。アン岬はジョン・ウィンスロップが最初に見た新大陸です。ウィンスロップの『日記』にはアン岬からグロスターを通ってセイラムに到着したことが記されています。また『日記』には海外沿いの地図も載せています。ピューリタンたちが4月に英国を出発して、アン岬に到着したのは6月でした。新大陸の緑の森は、ウィンスロップにとって輝く「約束の土地」に見えたのでしょう。アン岬周辺は大理石の採石場としても有名です。現在は切り出した大理石の後に水が湧き出て、小さな池になっています。ボストンよりも大西洋に突き出ている岬であるため、1812年の英国との戦争では英国の海軍の船の到来をここの灯台から監視しました。アン岬はボストンから車で1時間くらいです。グロスターは列車がノース・ステーションから出ています。保養地としても有名なので、タウンの中心部はお土産屋さんがたくさんあります。
 アン岬は2012年8月25日に撮影しました)


2014年度から「アメリカ文学と啓蒙主義」が始まりました
CEO2014年4月から新しい科学研究費の挑戦的萌芽研究プロジェクト「アメリカ文学と啓蒙主義」がスタートしました。研究課題はピューリタニズムから18世紀の科学に至る200年間を思想と文学の変貌についてです。過去の科学研究費プロジェクトは1600年代のマサチューセッツとコネチカットが中心でしたが、萌芽研究では宗教がどのように科学の導入によって勢力を失っていったのかを調査します。また植民地時代のタウンが商業によって近代都市に変貌していく様子をさぐりたいと思います。
 コネチカット州ハートフォードの研究は最終的にトマス・フッカーの伝記を出版することにあります。萌芽研究は、それと同時にフッカー以後の1660年からアメリカ独立戦争に至るコネチカットの自治についても扱います。1700年代はアメリカ独立革命が有名なのですが、それ以前の思想はほとんど研究されていません。
 アメリカの植民地時代は、神学者が知的アドバイザーの役割を果たしていましたが、ヨーロッパの啓蒙主義の文献を読んだ知識人たちは宗教の影響力から「個人の自立」へと動きます。アメリカの独立はこのようなアメリカ人の自己意識と大きな関係があります。アメリカの独立は単に英国からの経済的・政治的独立を意味するだけではなく、宗教から離脱した人間の自律をも意味していました。
(写真はマサチューセッツ州コンコードにあるミニットマン像です。レキシントンとコンコードの戦いはアメリカ独立戦争の最初の戦いです。ミニットマン像はダニエル・チェスター・フレンチにより作成され、ノース・ブリッジを渡った所にあります。英国軍はこのコンコードの戦いの帰路、独立を支持する市民軍に攻撃され、多くの死傷者を出しました。隣にエマソンやホーソーンが住んだ旧牧師館Old Manseがあります。エマソンの祖父ウィリアム・エマソンは旧牧師館から銃声を聞いたと言われています。距離は200mくらいでした。
 ミニットマン像は、2015年8月21日に撮影しました)

過去に取得した科学研究費と現在の科学研究費(研究代表者小倉いずみ)

1998年
基盤研究C「ジョン・コットンとアメリカのピューリタニズムに関する研究」(研究代表者小倉いずみ)
2003年
基盤研究B「ピューリタニズムの生成と継承に関する研究」(研究代表者小倉いずみ、研究分担者:上智大学教授増井志津代、同志社大学教授林以知郎、国際基督教大学教授大西直樹、研究協力者:同志社大学准教授白川恵子)
2004年
研究成果公開促進費学術図書『ジョン・コットンとピューリタニズム』彩流社(研究代表者小倉いずみ)
2007年
基盤研究C「トマス・フッカーとコネチカット植民地に関する研究」(研究代表者小倉いずみ、研究分担者:同志社大学教授林以知郎、同志社大学准教授白川恵子、慶応義塾大学准教授竹内美佳子)
2011年
挑戦的萌芽研究「知的フロンティアとしてのコネチカット州ハートフォード」(研究代表者小倉いずみ、研究分担者:東京理科大学准教授深瀬有希子)
2012年
研究成果公開促進費学術図書
『ソローとアメリカ精神――米文学の源流を求めて』金星堂
(研究代表者で編著者は小倉いずみ、研究分担者は22名の執筆者。機関管理は大東文化大学学務部)
2014年
挑戦的萌芽研究「アメリカ文学と啓蒙主義」(研究代表者小倉いずみ、研究分担者は大東文化大学准教授坂部真理、大東文化大学講師中根一貴)
2016年
基盤研究C「啓蒙主義からアメリカの知的独立にいたる宗教の変貌」(研究代表者小倉いずみ、研究分担者は大東文化大学准教授中根一貴)
2019年
研究成果公開促進費学術図書
『トマス・フッカーとコネチカット』金星堂(研究代表者小倉いずみ)
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