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大東文化大学法学部政治学科教授小倉いずみのホームページです。

Izumi Ogura

Professor of English
Department of Political Science
Daito Bunka University

** Academic Achievement **   

アメリカの都市Cities in research

研究対象となっているアメリカの都市やタウンをご紹介します。古い植民地時代のタウンであるコネチカット州ハートフォードやマサチューセッツ州コンコードとレキシントンとは対照的に、現代の経済の中心地ニューヨークの歴史に触れます。小倉科学研究費では毎年アメリカに出張して現地調査を行なっています。対象の地域はマサチューセッツ州、コネチカット州、ニューヨーク市、カリフォルニア州サンフランシスコ市などです。ニューイングランド地域が中心ですが、広いアメリカの国土を知るために飛行機の中継地に滞在して調査をすることもあります。

古い植民地時代のタウンから現代へ

アメリカでの現地調査の報告を掲載しています。
ボストン・マラソン
2013年4月15日ボストン・マラソンでの爆破テロ事件はボストンの中心部のコプリー・スクエアのすぐそばで起きました。ボストン・マラソンはマサチューセッツ州の愛国者の日Patriots' Dayに開催されます。これは4月の第三月曜日で、もともとはアメリカ独立戦争の最初の戦いであるコンコード・レキシントンの戦いが行われた1775年4月19日を記念する日です。ゴールはボストン公立図書館の前ですが、事件が起きた場所はその隣のブロックでした。コプリー・スクエアは夏になると果物や野菜のマーケットが開かれたり、アマチュアの音楽家がストリート・ミュージックを演奏したりなど開放的な場所です。またコプリ―・スクエア・モールはボストン市の中心にある大きなショッピング・センターで、雨の日でもショッピングができます。近くのプルーデンシャル・モールともブリッジでつながっていて、フード・コートなど安く食事ができる場所もあり、とても便利です。テレビの映像は私が見慣れた場所ばかりで、とても心が痛みます。この事件でスクエア周辺が警備で閉鎖されないように願っています。
 小倉が学んだ大学院は二つありますが、最初の大学院であるBoston Collegeは有名な心臓破りの丘のてっぺんにあります。大学院でアメリカ研究を学んでいた年に瀬古選手がボストン・マラソンに出場して話題になったことを思い出しました。1979年4月に図書館で勉強していた時に、マラソンに日本人のSeikoが出場しているとアメリカ人に言われました。私も瀬古選手は聞いたことがなかったので、時計のセイコーだと思っていました。図書館はマラソンの選手が走る大通りに面していて、学生たちが勉強しながら窓の外を見ていました。瀬古選手はその時は2位でしたが、1981年と1987年に優勝しています。ボストンは4月に八重桜が咲き、緑も美しく、マラソンには絶好の天気です。またマラソンのルートは住宅街を通るので、東京のようにビル街を走ることもなく、周りの風景は林の中を走っている感覚です。
 夏休みにボストンに現地調査に行くと、私はいつもコブリー・スクエアのホテルに滞在します。テロ現場はショッピング街の中心にあり、歴史ある図書館の隣で閑静な場所でした。ボストン公立図書館は新館は一般の人向けの図書が多いのですが、古い旧館は多くの歴史ある文書が収録されています。大学院生の時に興味本位で古い手書きの原稿を要求して、学芸員に怒られたことも良い思い出です。それ以後古文書に対するいい加減な気持ちがなくなりました。今はなるべく原本に触れずに、その写真を見て分析するようにしています。copyrightのページに私の古文書に対する思いを書いています。
 バナー・スペースの「都市」の写真はそのホテルの部屋からチャールズ川を撮影したものです。下の方に見えるマンションの屋根の向こう側がゴール地点です。犯人は逮捕されましたが、その銃撃戦の場所となったウォータータウンは、ちょうど写真の川向こうになります。ウォータータウンはケンブリッジとともに、トマス・フッカーの影響が強かったタウンで、ここの住民がコネチカット州ハートフォードを建設しました。二重の意味で、心が痛みます。近い将来にいつもの閑静な文化都市のボストンが戻ってくることを期待しています。
ホルコム氏死去
ハートフォード市内のAncient Burying Ground Associationの理事長を務めていたシェパード・M・ホルコム氏Shepherd M. Holcombeは2012年11月28日に死去されました。ホルコム氏はトマス・フッカーの姉を祖先とするフッカー・ファミリーの一員で、ハートフォードの歴史に詳しい民間人でした。コネチカット歴史協会、Old State House、Wadsworth Atheneum(ハートフォードの美術館)の理事を務め、ハートフォードの創設者の子孫で作られたSociety of the Descendants of the Founders of HartfordとSociety of Colonial Wars in the State of Connecticut のガバナーも務めました。
 コネチカットでは植民地時代から続く家が多く、Sons of American RevolutionやDaughters of American Revolutionなどに所属する人がアメリカの史跡を守っています。歴史的な遺跡は彼らによって無償で維持されることが多く、その後state monumentやnational monumentに指定されるようになります。亡くなられたホルコム氏や小倉が頼りにしているブラウン氏は、このような民間組織のかなめの人たちです。彼らは由緒ある家の一員であることを誇りにして、裕福な家庭を守りながら古き良きアメリカを後世に伝えています。
 ホルコム氏の祖母は現在のAncient Burying Ground周辺の市街地を整理し、環境整備に貢献しました。この功績により植民地時代から続く由緒ある墓地に埋葬された最後の人物でした。ホルコム氏は祖母の遺志を継いで古い墓地を守り、墓地内にあるハートフォードの創設者の名前を刻んだオベリスクを再建しました。フッカーと共にハートフォードの創設者であるサミュエル・ストーンの子孫とも交流があり、コネチカットの歴史の生き字引とも言える人物でした。歴史学会にも友人が多く、本研究にも多くの貢献をしていただきました。
 English Pageにも追悼の文書を入れています。なお小倉は昨年夏にハートフォードで現地調査をした時にホルコム氏の長女のAnneさんにもお会いしており、これからもフッカーの一族と交流する予定です。
2012ハートフォード調査
8月にマサチューセッツ州のボストンとケンブリッジ、コンコード、ウースター、コネチカット州ハートフォードに現地調査に行きました。ボストンにおける調査は例年と同様に図書館を中心とした資料収集でした。コンコードでは、ウォールデン湖、エマソン・ハウス、ウォールデン・ウッズ・プロジェクトのソロー・インスティチュートを調査しました。ホーソーンが住んだウェイサイドは前日に火災があり、今年も邸宅内に入ることはできませんでしたが、ホーソーンが思索のために散歩した小道をたどり、となりのオルコットの家に行きました。
 ハートフォードでの調査は2年前の調査の継続です。Ancient Burying Groundの成立とその後の変遷をフッカーの8代目の子孫であるシェパード・ホルコム氏に伺いました。またConnecticut Historianであるウォルター・ウッドワード教授にお会いし、ウィンスロップ二世やハートフォードの創設について意見を交わしました。私にとってハートフォードは重要な研究対象ですが、彼らは日本人がアメリカのタウンの研究をしていることに感謝していました。
 フッカーが牧師を務めたFirst Parish Churchで、19世紀に製作されたフッカーのステンド・グラスを確認しました。これはいままでの学会発表の資料で使用したニューヨーク公立図書館のフッカーの肖像の原版です。ティファニー宝石店が得意とするパール色の透き通った白でモザイクがデザインされています。ハートフォードでの現地調査はコネチカット墓石協会のルーシー・ブラウン氏の協力によりなされました。
ハートフォードの歴史
コネチカット州ハートフォードは、トマス・フッカーが1638年に創設したタウンです。コネチカット川は、豊かな森林、肥沃な土壌に恵まれ、インディアンが居住していました。最初に探検したのはニュー・アムステルダムに本拠を置くオランダでしたが、ボストン近隣のドーチェスターやウォータータウンから次々と英国人が入植しました。フッカーは、同僚牧師のサミュエル・ストーンと共に、ハートフォード教会を設立します。ハートフォードは、ストーンの英国出身地の名前です。ハートフォード創設は、最初の西漸運動と呼ばれ、アメリカの最初のフロンティアでした。
 フッカーの子孫は現在もハートフォードに在住しています。フッカーの姉から数えて8代目のShepherd M. Holcombe氏は、Ancient Burying Groundを保存する協会の理事長を務めています。フッカーの同僚だったサミュエル・ストーンの子孫もハートフォードに住んでいます。コネチカット州では、歴史を大切にしてConnecticut state historianを任命しています。現在はコネチカット大学のWalter Woodward教授が務めています。
 ハートフォードはコネチカット州の州都ですが、市内に300エーカー(約10万坪)のCedar Hill Cemeteryがあります。南北戦争以後の墓地で、コルト銃を製作したサミュエル・コルト夫妻やフッカー一族の墓があります。最近ではハートフォードを愛した女優のキャサリン・ヘップバーンが埋葬されています。Connecticut Gravestone Networkという墓石の保存と墓地の管理をする民間組織があり、公園のような美しい墓地を維持しています。
 マーク・トウェインとストウ夫人の家もハートフォード市内にあります。トウェインの家は1階の居間を中心に19世紀の優れた調度が残されています。ティファニー宝石店によるパール色のグラスの壁がちりばめられ、植物を栽培するサン・ルームもあります。しかし、トウェインは豪華な居間で執筆することはなく、簡素な天井裏で小説を書いていました。トウェインの家に隣接してMuseumが建てられています。中のカフェは「ムラサキ」と言う名前で、日本のカレーも召し上がれます。
 ストウ夫人の家は質素でこじんまりとしています。しかしキッチンは当時の最新型のもので料理がしやすいように整理されています。この二つの家の前はバスが通っていて、通勤ルートですが、徒歩でも行ける距離です。
 ハートフォードにはCharter Oakと呼ばれる樫の木がありました。1684年母国英国は植民地支配を強化するためにマサチューセッツ湾植民地の勅許状を無効とし、1685年ニューイングランド・ドミニンオンを作り、コネチカットからも1662年の勅許状を取り上げようとしました。ハートフォードの指導者はエドモンド・アンドロスに勅許状を渡さないため、樫の木の裏に隠しました。この樫の木は後に倒壊しますが、その場所には大理石の円柱が立っています。また倒壊した樫の木はState Museumに保存されている勅許状の枠に使用されました。勅許状が展示されている部屋には、初代の総督John Haynesから現在の州知事の肖像画がかけられています。
ハートフォード報告書
挑戦的萌芽研究「知的フロンティアとしてのコネチカット州ハートフォード」は2013年3月で終了しました。研究成果報告書をご希望の方は大東文化大学法学部政治学科小倉あてにご連絡ください。市販されておりません。2011年9月アメリカ文学会東京支部例会の発表原稿をベースにして加筆したものです。またハートフォードで現地調査した際の写真を収録しています。この報告書と以前行われた科学研究費基盤研究C「トマス・フッカーとコネチカット」を合わせて単行本として出版する予定です。
 現地調査に協力していただいたアメリカ側の研究協力者には報告書をお送りしました。
ボストン
1630年にジョン・ウィンスロップに率いられた人々が、マサチューセッツ湾会社の勅許状を持って入植した場所です。英国国教会の改革派である会衆主義をベースに「丘の上の町」を創るために、彼らは大西洋を渡ったのです。当時のボストンは、ショーマット半島と呼ばれる「海に浮かぶ要塞」でした。入口のネックと呼ばれる狭い道を通らないと、政府所在地には到達できませんでした。これは、インディアンの攻撃から町を守るためでした。19世紀半ばに、都市化が進んで、海が埋め立てられ、現在の平地のボストンができました。高級住宅地のビーコン街は海抜が高かったので、土地を削って、その土を埋め立てに利用しました。この時に海に打たれた大木の杭は、現在もボストン市内を支えています。ショッピング街で有名なニューベリー・ストリートは、もともとは海でした。
コンコード
多くの文化人が住んだ伝統のタウンです。1776年に始まる独立戦争の発祥の地です。ノース・ブリッジで、植民地軍と英国軍が戦いました。ノース・ブリッジのの隣にOld Manseと呼ばれる旧牧師館があります。この建物からコンコードの戦いを見ることができました。旧牧師館は、エマソンが『自然論』を執筆した場所であり、ナサニエル・ホーソン夫妻が住んだ場所でもあります。コンコードの見どころは、ほかにも、エマソン・ハウス、オーチャード・ハウス(ルイザ・メイ・オルコットが住んだ家)、ウェイサイド(ホーソンが住んだ家)、スリーピー・ホロー墓地(エマソン、ホーソン、ソロー、オルコットが埋葬された墓)、ウォールデン湖(ソローが2年2月2日小屋に住んだ場所)、コンコード・ミュージアムなど、たくさんあります。一日ではすべてを見ることができないので、何回かに分けて行くことをお勧めします。ボストン市内から20マイルの近郊にありますので、車で行くのがベストですが、ボストンのノース・ステーションから鉄道でコンコード駅まで行き、タウン・センターまで歩くこともできます。歩き疲れたら、コロニアル・インのベランダで食事を召し上がってください。
 アクセスについては、次のページのアメリカの都市(続き)をご覧ください。
ウースター
 ウースターは工業都市ですが、ボストンから50キロ離れているため、植民地時代の資料が保存されました。アメリカ独立革命で文書が破壊されることを恐れて、ウースターに資料を移しました。これが現在のAmerican Antiquarian Societyのもととなりました。植民地時代の新聞や日記、教会記録、肖像画が地下書庫に収められています。文書のデジタル化が進められ、パソコンで検索することができます。隣にWorcester Polytechnic Instituteという理系の大学がありますが、MITに次ぐ優秀な人材をハイテク産業に送り出しています。
レキシントン
次のページのアメリカの都市(続き)をご覧ください。
植民地時代のタウン形成
科学研究費で現地調査をしたタウンを紹介してゆきます。

ニューヨーク

 ニューヨークはとても魅力的な都市です。アメリカは、日本ほど新しい建物は建築されませんが、ニューヨークは毎年行くごとに変貌しています。マンハッタンのホテルに泊まると、美術館やセントラル・パークは、歩いて行ける距離内にあります。また一つの美術館は、日本よりもスケールが大きいので、一日ですべて見ることがてきたら、それは小さな美術館です。メトロポリタン美術館は、すべてを見るのに3日間かかると言われています。
 もとはニュー・アムステルダムと呼ばれ、オランダの植民地でした。新大陸の開拓が進んだ1600年代は、英国とオランダが、海外の領土をめぐって、覇権を争いました。日本が鎖国した後は、長崎の平戸で、オランダとの交易が許されましたが、これは英国が日本に到達する前だったので、オランダだけが残ったのです。ニューヨークは、英国とオランダが争った最後の拠点でした。1664年に第二次英蘭戦争が起き、オランダが敗退し、英国国王の弟ヨーク公の名前を取って、ニューヨークと名前を変えました。1654年にすでに、ハートフォードが英国領となっています。
 スタイヴェサント通りなど、オランダの名前が今でも残っています。また二人の親戚の大統領であるセオドア・ルーズベルトとフランクリン・デラノ・ルーズベルトの生家は、この時代から続くオランダの名門です。セオドア・ルーズベルトの生家はマンハッタンにありますが、フランクリン・ルーズベルトの生家は、ハドソン川の上流の広大な敷地にあります。ハドソン川の上流には、今でもオランダ系の子孫が多く住んでいます。

CEO 次の科学研究費ではオランダの時代からどのように英国領になったのかを研究する予定です。すでにマサチューセッツ湾植民地とコネチカット植民地について、さまざまな著書で発表してきましたので、こんどは英国とオランダの領土争いを研究していきたいと思います。マンハッタンのバッテリー・パークにはオランダとインディアンとの交流を記念するタワーがあります。普通はニューヨーク市の旗が掲げられていますが、その台座にオランダとの歴史を見ることができます。左側の写真をご覧ください。例えば、風車とビーバーがデザインされて、風車はオランダ、ビーバーはインディアンが狩猟した毛皮を表わしています。また両側に描かれている樽は、ラム酒の樽です。
(写真は2015年8月23日に撮影しました)


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